柳井祥緒(やない さちお)さんにインタビュー【2018.3.22】
2001年に劇団「演劇企画ミルク寺」旗揚げ、2010年に劇団「十七戦地」旗揚げ
「花と魚」で第17回日本劇作家新人戯曲賞受賞(2011年)
テレビ東京ウルトラマンシリーズ脚本執筆
「ウルトラマンX」(2015年)、「ウルトラマンオーブ」(2016年)、「ウルトラマンジード」(2017年)
☆演劇を始めたきっかけは何かありますか?
→小学生の時に課外授業で演劇を見て、やりたいと思ったんです。中学校に演劇部が無かったので、演劇部のある高校を選びました。
高校時代は役者をやって、面白かったし、演劇は一生懸命取り組めるなと思いましたね。でも、高校で演劇が出来たことに満足してしまって、卒業後、ふらふらしていました。どこか有名な劇団に入ろうとか、人生設計が全く出来ていなかったんです。それを見かねた父親が劇団のチラシを持って来てくれて、その劇団に入団しました。そこでは、30代、40代の役者の先輩たちから技術的なことを学ぶことが出来ました。
☆お父さまが協力的でいらっしゃったんですね。
→そうですね。今思えば、チラシを持ってきてくれなかったら演劇をやっていなかったかもしれないし、大学も行かなかったかもしれないです。
劇団に入った時に、周りの人が大学を卒業していたので、大学くらい行っておかなきゃいけないのかなと思って早稲田大学に入りました。
入学後、劇団に戻ろうと思ったら、つぶれていたんです。それで、劇団にいた仲間たちと一緒に「演劇企画ミルク寺」を旗揚げしました。旗揚げしたら、つぶれた劇団が復活するんじゃないかなって思っていたんですよね。そこでは、演出、脚本を担当していて、演劇中心の生活を送っていました。
☆やりたいことを優先されていたんですね。
→そうですね。ただ、28歳の時、劇団を解散しました。
☆そうなんですね。その後、立ち上げた劇団「十七戦地」はどういうふうにしていこうと考えました?
→運営していく上で資金繰りは重要なことなので、旗揚げして3年間くらいは事業計画を立てていました。長期、中期、短期というように、何年後には動員を何人にするとか。
今年で8年目になりますが、2018年は団員それぞれが自力で稼げるようなソロ活動をしていくということを目標にして、1年間休団することにしました。
前の劇団で解散を経験しているので、収支に関してはきちんとやっていかなければ、やりたいことが続けられなくなるということを痛感しているので。
☆劇団以外ではどんな活動をされてきたんですか?
→35歳の時にウルトラマンの脚本の仕事をしてみて、脚本の仕事って面白いなって思えました。そのタイミングで12年間続けてきた事務のアルバイトを辞めました。会社の体制も変わったし、もうこれで辞めるきっかけかなと思えたんです。
☆転機でしたね。演劇を続けるための収入源だった仕事を辞めるのは勇気がいりましたよね?
→はい。半年くらいは脚本の仕事がありましたが、その後、お金が尽きて、コールセンターで派遣の仕事をしながら書いてきました。
それから、ウルトラマンシリーズの脚本やアニメの仕事をいただいたり、他の劇団に書き下ろしをしたりして仕事が増えていきました。
少しずつ忙しくなってきたので、昨年は、コールセンターには籍のみ置いておくかたちにしていました。そして、今年の3月に辞めました。いつでも戻って来ていいよと言ってくれたので、安心して辞めることができました。
会社を辞めたことをツイッターでも宣言しました。税務署に脚本家として登録してきたと周りに言ったら仕事をもらえるようになったんです。本気を出したら、お友達価格ではない金額で仕事をいただけるようになってきましたね。
☆がんばっていますね! 劇団運営の収入源となっていた仕事を辞める時、どんなことを考えましたか?
→40歳まで事務の仕事を続けていたら、フリーで劇作家、脚本家として生きることを諦めてしまうなと思いました。40歳までアルバイトをしながら演劇を続けるってことは自分には向いてないことなのかなとも思ったし。親も年をとるし、その会社でアルバイトをしていたら正社員にもしてくれそうだったし。その仕事をしながら演劇を続けているってことは、自分自身でもそんなにやりたいことではないのかとも思ったし。
それで、自分に何ができるのかを考えたんです。そうしたら、自分に出来ることは、電話応対と脚本を書くことくらいしかないということがわかりました。
☆ご自身でキャリアの棚卸しをして、道を切り開いたのですね。
→いえいえ、周りの人のおかげです。僕は書きたいものが無いんですよ。(笑)
何がしたいって言ったら、
【やりたいことのある人の力になりたい】
自分は芸術家としてではなく、技術職として脚本を書いていく、そう思っています。
16歳で演劇を始めて、20代の頃は多分書きたいものがあったんですね。忘れちゃいましたけど。(笑)29歳の時にシナリオ作家協会の講座に通ったんですけど、それも友だちに行ってみたらと言われ……。
岐路に立つと、誰かしらが声をかけてくれて、人に助けられてきました。ただ、自分の中では、手を差し伸べられたら一生懸命やるっていうのは決めています。
☆その気持ちはどこから湧き上がってくるんですか?
→生かされてる感じがするんですかね。(笑)恩返ししたいと思っているんです。恩返しをするということが、その人の必要としている力になるということなんだと思うんですよ。
☆誰かのために何かをすると、生きている感じがする。必要とされていたいんですね。
→そうですね。「脚本屋」みたいな感じです。クライアントのやりたいことをヒアリングして、引っ張り出して。他の脚本家さんと差別化するために、絶対に僕にしか出来ないことをやります。
☆自分にしか出来ないこと、柳井さんのオリジナリティとはどんなものですか?
→物語の展開とアイディアですね。これだけは負けまいと思ってやっています。三谷幸喜さんの作品が好きだっていうのと、中学生のころから、ロジックの強い海外の推理小説ばかりを読んでいましたからね。パッションや情感の強い作家さんは多いんですが、ロジックの強い作家さんは多くはないんですよ。同世代の中で、誰よりもロジックの強い作家であろうと思っています。
☆きちんと自己分析ができていますね。劇団の事業計画の話しでもそうですが、経営者的ものの見方をしていらっしゃいますね。
→転職をするかどうか、人生に迷った時に、「なぜマッキンゼーの人は年俸1億円でも辞めるのか?」とか、ビジネス書を読みましたね。
【自分が会社になるんだなって思ったから】
☆その考え方は今の時代にはとても必要な考え方ですよね。今まであった企業が無くなったりして、会社員をしていても自分自身を経営するという考え方をしておくことが大切ですね。実際、打ち合わせはどのようにしていらっしゃるんですか?
→ダメ出しをされたら、その場で代案を出すようにしています。いくつかあるパターンの中で、この人は何が言いたいのだろうって考えて出すようにします。
20代の時に、自分の中から出すことはとてもエネルギーのいることだと気づいて、このままでは枯れていくと思いました。だから、人からもらったものを打ち返していくってことでなければ続けていくのはむずかしいと思ったんです。なんだろう、積極的な受け身みたいな。(笑)
何でも返す、ということは心がけています。打たれ強くなければやっていけないと思っています。
☆こうしたら喜ばれるとか、子どもの頃から客観的に物事を見ることは得意だったんですか?
→僕は、複雑な家庭で育ったんですよ。3世帯家族で、父親が7人兄弟で、週末にはその兄弟が全員やって来て、みんなで丸テーブルを囲んで食事をするんです。父と仲の良い伯父や仲の悪い伯父がいて、その時に、たったひと言で空気が変わってしまうという状況を経験しました。
僕が5歳の時に、ここの大家族と暮らし始めました。今思うと、こういう環境から、ちょっとした表情の変化を気にする癖がついたんだと思います。
☆三谷幸喜さんの作品のような世界観ですよね。
→そうですね。僕にとっては遠い話しではなく、リアリティがありましたね。市川崑監督の「犬神家の一族」とかも。
気まずい雰囲気にしないようにと常に考えていました。いろいろ与えられてきて育ったので、世間知らずで、お坊ちゃんなところがありました。
演劇活動をしていく中で、たくさん失敗をして、お金のことや人間関係などを学んできました。培ってきたものがいったん揃ったのが35歳でした。
☆35歳が転機だったんですね。
→そうですね。ただ、自分の転機はたまたまです。偶然の時に、決断を迫られて今に至ります。
☆やりたいことがある人は、偶然に訪れたものごとをチャンスとして掴むことが出来るんですよね。やりたいことが見えていない人はそれを掴みとれないんです。
→そうなんですかね。35歳の時、「背水の陣を引くと、運がやってくるよ」と恩師が言ってくれました。
☆今後の夢や目標はありますか?
→演劇界でえらくなりたいとは思わないけれど、自分が生活していければそれでいいというわけではないですね。
小劇場で高齢者が辞めない演劇界を作りたいと思っています。役者さんが40代、50代になっても俳優を続けようと思えるような脚本を書いていきたいです。40歳が小劇場は1つの転機で、辞めていってしまう役者さんが多いんです。
今、仕事としては脚本がほとんどなのですが、幾つかの劇団では演出もしています。その劇団には40代、50代の役者さんがいらっしゃって、そこが軌道に乗るまではやりたい。40代、50代の役者が活躍している劇団があるんだということを知ってもらいたいんです。
僕にとっては、小劇場がホームベース。自分が生活できる体制を整えつつ、小劇場を盛り上げていきたい。役者さんには年齢で諦めることなく、好きなものを続けていってもらいたいんです。
「文化保護事業」のようなものとして取り組んでいきたいですね。(笑)
42歳くらいまではやりたいことは見えていますが、その先はまた、何か次のものが見えてくると思っています。
最初に所属していた劇団で、演劇についていろいろなことを教えてもらったんです。残念ながら、その劇団の主催者の方は38歳で辞めてしまいました。
恩返しがしたいんですね。
インタビュアー : マリコ
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