石田祐葵子(いしだ ゆきこ)さんにインタビュー【2018.3.16】
28歳の時に、「江ノ島高校ワンダーフォーゲル部」でデビュー(コミックCawaii!/主婦の友社)同タイトルを1年半連載
現在は株式会社地域新聞社で、編集者として地域情報を発信
☆石田さんは漫画をずっと描かれてきたんですよね。
→31歳から有名漫画家のアシスタントをしながら、石田祐葵子というペンネームで青年誌向けの漫画で仕事を取れるようにがんばっていました。編集者の方もついてくださっていたのですが、30歳を越えていたので、売れるものを描くことを求められました。年齢というハンディがある分、飛び抜けたものを描けなければプロとしてはやっていくことができません。3年間は仕事を取れるようにがんばってきましたが、それは叶いませんでした。
今の時代は、WEB漫画が増えてきて単行本の発行が減っているので、こうしていたら売れるというものが無く、編集者の方も苦労しています。カオス状態ですね。SNSやWEBで誰でも簡単に投稿できる時代で、漫画を発表できるチャンスは増えていますが、漫画を描いて食べていける人が減ってきています。
40歳くらいまでは先生の元で、漫画家アシスタントとして生活できたと思います。でも、先生が漫画を描きたくないと思って辞めてしまったら職を失ってしまうと思い、65歳まで働ける仕事を探そうと思いました。
☆どのように仕事を探しましたか?
→転職サイトに登録して手当たり次第エントリーしました。今の会社(地域新聞社)の応募締め切り最終日にエントリーしたんですけど、そこで採用が決まって今に至ります。ご縁ですね。
☆今の仕事に就いた決め手は何だったんですか?
→【面白そうだった!】
内定をもらった仕事の中には、今の仕事より給料がよかった仕事もあったんですが、編集の仕事を選びました。
【ものをつくる仕事に携わっていたい】と思ったんです。
☆石田さんはいつから漫画を描いているんですか?
→16歳から描いています。20代半ばまでは同人誌に趣味として描いていました。
大学卒業後、事務の仕事を3年してから、プロを目指しました。20代後半は、出版社などでアルバイトをしながら漫画家さんのところでアシスタントをしていました。30歳手前で、主婦の友社のWEB雑誌 コミックCawaii!で1年半連載もさせていただきました。それからご縁があって、有名漫画家さんのところで3年間フリーランスとしてアシスタントをしながら、漫画家として生活できるようにがんばってきました。
【ひとつひとつのことを乗り越えていくと別の扉が開いていくんですよね】
☆名言が出ましたね。具体的にはどんなことがあったんですか?
→夢に向かってがんばっていた時、自分が望んでいたことではないけれど、有名な漫画家の先生のアシスタントに成れたり、そこでいろいろな経験をたくさんさせてもらったりとか。結果、漫画家には成れなかったけれど、今は編集者として仕事ができていたり。
望んでいたかたちではないけれど、【表現する】ということは一緒なのでとてもやりがいを感じています。ひとつのことが終わった時に、そのステージの使命から逃げないで全うしていると、次の扉が開いて進む道が見えてくるというのを実感できています。
☆なるほど。ひとつひとつのことをやり切っていく、取り組んでいくっていうのは大切なことですね。
→そうですね。なんでこの道(漫画家を目指す)を選んだんだろうって何度も思いましたけどね。
☆その道を辞めずに突き進める原動力は何だったんですか?
→漫画を描いて表に出した時に、読んでくれた人がいて、何かを思ってくれるっていうのがなんていうのかなあ……
☆それがモチベーションになっていたんですね。
→そうなんですよー!
漫画家の先生も、ファンレターが何よりも一番の励みだとおっしゃってましたね。自分の漫画を読んで感想をくれるっていうことが一種の麻薬みたいなものなんですよ。(笑) 幸福感というか充実感というか。
☆表現者としては大切なことですね。やりたいことに対して反応があって、それに走らされていた感じですね。
→そうですね。そういった点では、今作っている地域密着型の週刊のフリーペーパーは発行部数が多いのでやりがいがあります。213万部発行していて、私が担当している千葉市は30万部です。
千葉市は熊谷市長という日本で一番若い市長で、市民団体の活動が盛んなんです。地域の活動を紹介したり、大学が行っているイベントを紹介したり、役者さんにインタビューをしたり。まだ、就職して1年しか経っていないのですが、取材をしてたくさんの方と出会えました。千葉のラジオ局やテレビ局、自治体の人たちから地域のお店の人たちと一緒にお仕事させてもらっています。
☆働いていてどうですか?
→同じ人が集まって来ていて、やる気のある人ばかりが働いています。みなさん使命感をもってバリバリやっている方が多いんです。就職したら自分のオリジナルの漫画に向き合おうと思っていたんですけど、とんでもない環境でした。大手出版社で編集されてきた方やフリーでライターをされていた方がいらっしゃって、技術が高い。流れ込んでくる仕事を受けるのが精一杯の一年でしたね。
☆正社員で安定したとは思うのですが、漫画を描く時間が取れなくてストレスになっていないんですか?
→それがですね、編集だけではなくてライティングもやるんですよ。かたちは違うけれど、表現することを仕事でやっているので消化されているんですよね。100パーセント自分のオリジナルではないけれど、1つの記事を作ることで欲求が満たされているのもあって、そこまで漫画を描きたいという気持ちもない状態なんです。
☆今の仕事に携わったことによって、表現する手段にも変化がみられたのですね。石田祐葵子というペンネームは漫画家としてつけたんですよね。
→実は、記事を書く時に石田祐葵子で書いているんです。
☆今までやってきたことが繋がったという感じで、35歳で仕事を通じて変換しましたね。
→はい。ただ、20年間描いてきた漫画を辞めた時の喪失感は半端なかったですよ。
☆それはどうやって満たそうとしました?
→押し寄せてくる仕事をこなしているうちに消化しました。12月末で漫画家アシスタントを辞めて、年明けすぐに今の会社で働き始めたんです。
就活している時は、止まったら落ち込みの穴に落ちてしまう、死ぬ! と思っていました。(笑)
漫画を描くことを辞めることは、今までの私の芯が無くなっちゃうことと同じなので。積極的にいろいろな人に会いました。苦しくても引きこもらない方がいい。人と会ったほうがいい。
☆40歳以降も仕事を続けられる会社を選んで、ライターという専門職にも出会えたのですね。
→3ヶ月は先輩と一緒について行ったんですが、その後はひとりでインタビューに行ったりプレッシャーとの戦いでした。ミスもしましたし、落ち込みもしましたが、漫画を描いていた時の理不尽さに比べたらと思って頑張ることが出来ました。(笑)
☆石田さんはどんな職場でもやっていけそうですね。漫画家を目指して頑張ってきたことで根性を培われたんですね。
→何があってもある程度大丈夫だっていう、自分に対する自信がつきましたね。
☆すばらしい! 物事をやり続けるって自信もつくんですね。今後の目標や夢は見えてますか?
→まだ、あんまり見えていないのですが、ただ、言えることは、自分の仕事に誠実に向き合っていると次の仕事との出会いがやってくるということです。今は目の前のことをひとつひとつこなしていきたいですね。そうして頑張っているとまた次の出会いがあるだろうと思っています。編集者としてもライターとしても技術を上げていくことが目標です。
☆今までの経験があるからこそ、それが実感できているんですね。
→そうですね。自分が望んだかたちではなくても違うかたちで来たりするので、それを拒まないことが大事ですね。
☆今までやり切ってきたということがあるからこそ、新しいことを受け入れられるんですね。
→ ほんとうにそうですね。体調を崩すまでやって、もうダメだ! というところまでやりました。(笑)
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